待ち合わせ場所に、裕也はいつも正確な時間に現れる。正確だからこそ、五分前から待っていれば樹里が裕也を待たせることはなかった。
「行こうか」
現れた裕也は、挨拶もなしにそう言って歩き出す。
樹里は小さく返事を返すと、裕也の隣を歩いた。もう随分慣れたが、最初は歩幅を合わせてくれる裕也にいたく感動したものだ。
ーー以前は少し早足で追うように歩いていた。こちらを気にしていないかのような、必死について来いと言わんばかりのペースを追いかけた。その姿に憧れさえ抱いていた。
イタリアン・バルに入る。空調の効いた店内は心地良く、カウンターの中ではシェフが大きなローストビーフをスライスしている。
席に座ると、二人はワインと低アルコールの果実酒、そして簡単な食事を注文した。
「昨日の写真、良かったよ」
おしぼりで手を拭きながら、裕也は樹里に微笑む。嫌味のない自信を持ったこの笑みに樹里は弱かった。
裕也がどの写真を意図しているか、樹里にはすぐに理解できた。夜な夜な部屋で何度も撮り直した写真を思い出し恥ずかしくなる。
「喜んで頂けて良かったです」
不思議な感情だった。樹里は裕也に褒められることを誇らしく感じていた。
「この後、樹里を使うのが楽しみだよ」
何事もなく裕也は言った。裕也と関係を持って始めの頃は人前でこのような発言をされるのが恥ずかしくて仕方なかったが、今は嬉しさの方が勝ってしまう。
「……はい」
樹里は嬉しそうに頷いた。同時に、体のどこだかわからない場所が熱くなっていた。その熱はゆっくりと頭に移動し、樹里の脳をぼんやりと包んだ。思考が鈍くなっていくのを感じる。考えられない。
不意に、掌が軋むような痛みを覚える。驚いて我に返ると、裕也が強い力で樹里の手を握り締めていた。
あぁそうだ、私は何も考えなくていいんだ。
ーー以前樹里は、結論の出ない問題に悩み続けていた。参考書も正確な意味で相談できる人もおらず、自分の未熟さを呪った。どう足掻いても自分だけが悪になる世界を生きていた。
「考えなければ」と考えなくていい。これは樹里にとって想像もしたことがない環境だった。
私はこの人のしたいようにしていればいいんだ。それが自分の幸せでもある。私がしたいことは、この人がしたいことだ。
以前にも、こんなことを考えたことがあった。文章としては今も同じなのに、以前の自分とはまったく違う。
バッグの中で、スマートフォンが振動している。気づいたが確認することもなく、樹里は裕也との会話を続けた。
「ご……」
言いかけて、樹里は小さな咳をしたあとに言い直す。
「裕也さん、私の話、つまらなくないですか?」
樹里の問いに、裕也は寂しそうな表情を浮かべる。
「樹里の話を聞いているのが好きだからね。つまらない訳ないだろ」
安心した表情を浮かべると、樹里は子どものように裕也に話し続けた。
一時間ほど食事をし、二人は店を出る。すぐにタクシーを捕まえると、裕也は運転手に行き先を告げた。
後部座席で、樹里は震えながら夜景を眺めている。裕也はちぎれるほど強く樹里の内腿を握り締めた。我慢できないほど、樹里の呼吸は荒くなっていく。痛みよりも快楽と喜びが突き抜ける。
ーーよく身体に跡が残った。一生残るような傷ではなかったが、朝になると身体中に痛みと痣が残っていた。今はこれを証のように感じるが、当時はあの人にとっての勲章かマーキングでしかなかった。そんな男のくだらない自慢のような痣を私は喜々として受け入れていた。
同じことをしているのに、どうしてこんなに違うんだろう。
樹里が裕也と関係を持ってから何度も考えたことだった。
ホテルに入ってから長い時間、樹里は裕也から調教を受けた。緊縛も鞭も激しく樹里を責め立てたが、身体中が歓喜の叫びをあげていた。色々な体液が床を汚し、裕也の様々な体液を樹里は受け入れた。
痛みの間に裕也は何度も樹里に口づけを与えた。痛みは口づけのために、口づけは痛みのために循環した。
二人の心臓以外のすべてが死んでしまった部屋で、二人は泥のように眠り続けた。裕也の腕の中で、樹里は安らかな寝顔を浮かべる。
テーブルの上では樹里のスマートフォンが静かに振動している。
画面には「賢さま」という無機質な表示が浮かびあがっていた。
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