「奴隷を持つならば主としての覚悟をしなければならない」
この言葉は様々な場所で散見される。
この言葉には正論しかないので、とても聞こえの良い言葉ではある。
肉体的・精神的なコミュニケーションとしては間違いなく恋人よりもその女性に踏み込む関係となる。
最も愛した相手が恋人や夫であっても、最も自分を晒した相手はご主人様というパターンは枚挙に暇がないだろう。
愛情のある時にはこの「自分を晒す」行為はとても心地の良いものである。
変態的なセックスも、露出プレイも、写真や動画を残す事ですら快楽となることもある。
普段の自分では絶対に選ばないような選択を、主に守られながら実行していく事は代替できない気持ち良さがあるのだろう。
恋人ですらハメ撮りを許さない警戒心の強い女性が、何十枚、何時間もの写真や動画で恥態を残すことを許容する。残されることに悦びすら感じる。
それは関係の中で自分の判断や意見が抜け落ちてしまう気持ち良さでもあるかもしれない。対等であろうという気持ちを喪失した、命令の受け手としての快楽がある。
気分の浮き沈みはあるにせよ、サブミッシブはやはりサブミッシブという性質なのだなと思う事がある。
今まで律した自分や警戒心の強かった自分が勘違いだったように、抗えずにされるがままになってしまう。
僕はその時の、普通の女性としての生活や人生が「台無し」になってしまう瞬間の表情が堪らなく好きだ。しかしそれは決してどの女性にでも求められるものではない。
アブノーマルな性行為を経験させる事は、少なからず女性の精神に影響を与える。常識から逸脱した経験と記憶がいくつも生まれる。
そういった記憶を共有するべきパートナーは一人であり、それがご主人様であったならばサブミッシブの性質を持つ女性はこの上なく満たされるだろう。
主従関係が特別に刺激的で甘いモノだと美化するつもりはない。
人の精神が絡むゆえに、主側が深く傷つく事も大いに有り得る。覚悟をするのも我慢をするのも、どちらか一方という事はない。
「覚悟」は必要だ。
しかし、僕は覚悟がないなら踏み込むなというスタンスには違和感を覚える。
当たり前のように覚悟を求めるのではなく、わかるように説明をすることが重要であるように思う。
従者側も理解をする努力が必要だ。
愛情も覚悟もどちらか一方が固めただけでは、関係はきっと破綻してしまう。
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