人々は皆、好奇心の奴隷であると思う。
SM調教や主従関係に興味のある男女と接しているとそれを顕著に感じる。
以前読んだNewsweekの記事を参考にすると、日本人の知的好奇心のピークは20歳を境に低下していくらしい。
海外諸国と比べ「新しいことを学びたい」といった傾向が低く、日本の20代の知的好奇心はスウェーデンの65歳と同等程度のレベルのようだ。
当サイト「M女のための調教ブログ」のように特殊な性癖・嗜好を扱うコンテンツを運営していると、上述とは逆説的に強度の好奇心を持った男女と知り合う機会が多い。
Newsweekに掲載されていたような低下傾向を感じる事は少なく、むしろ年齢に関係なく強い好奇心を保った男女が集まってくるように思う。
社会で生活を営むにあたり、人はみな社会が決定したルールとそれを実生活にリサイズしたマイルールの中で生きている。
時折り自身への落とし込みの苦手な人が社会的なルールからも逸脱してしまうが、多くの人は理性と実情によって決定されたルールを生活に適用している。
主従関係やSMのパートナーを探す時、自身の好奇心と倫理観に基づいて相手を求める。
未婚か既婚か、単頭か多頭か、恋愛は含むのか、好みのプレイは?
自身が経験してみたい事と踏み込んではいけない領域のバランスを取りながら、自分なりに理想とする主従関係像を構築していく。
しかしそれがSMや調教未経験の女性が設定する基準であった場合、あまり精度の高い基準にはならない。それは仕方のないことだ。
経験がない事はどれだけ賢い人であっても想像の域を出ず、場合によっては経験のある愚者の方がそれを現実的に捉えることが出来るだろう。
想像と経験を重ねながら、自分にとって理想的で心地の良い関係性を模索していく。
しかし知識が増え自分にとって現実的な主従関係像が構築できた人の中にも、時折それが一掃されてしまう衝撃を受けることがある。
自分の身を守るために設定したはずのマイルールを破りたくなるような、強烈に好奇心を刺激されるような存在に出逢うことがあるのだ。
それは一枚の画像かもしれないし、たった一行の文章かもしれない。
特殊な性癖の世界に生きる人々は取り分け好奇心が強い。
十分な警戒心をもって設定したはずのルールを自ら破りたくなるほどに、想像もしていなかった魅力的な人やプレイに出逢ってしまう事がある。
絶対にNGとしていた既婚者に惹かれてしまう。
軽蔑していたようなプレイを受けてみたくなる。
自分にとって非現実的だったSM調教の世界に踏み込んでみたい。
綺麗なSMをしたかったはずなのに蔑まれ汚されてみたくなる。
主従は関係性こそ大切だとわかっているのに、すべての工程を飛ばして滅茶苦茶に調教を受けてみたい。
このような心境の変化を目の当たりにした時、我々は逆らうことができない好奇心の奴隷なのだと感じる。
節操がないとか意思が薄弱であるとかそういった類の話ではない。
生まれてしまった好奇心を満たすために、危険が漂いながらも好奇心に身を任せたくなる時がある。
知的で思考力の優れている人ほど、不思議とルールを破る決断をする。
冷静ではない自分を冷静に捉えながら、意図的に自分らしくない決断をするのだ。
間違ったり普段とは違う決定をすることの甘美さがどこか匂っているからかもしれない。
「好奇心は猫を殺す」という言葉もあるが、それ以上に我々は頭が働くゆえ欲求や知的探求心には勝てないのかもしれない。
踏み込んではいけない。
踏み込んでみたい。
そんな自問自答の繰り返しすら、知的好奇心に振り回されているのかもしれない。
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