日常の中で人はどれだけの「自分」を押し殺して生きているのだろうか。
職場で理不尽な要求に笑顔で頷き、友人関係で空気を読み、LINEの返信ひとつに気を遣う。
社会のルールに従い、誰かの期待に応え、賢く、優しく、正しくあろうとする。
しかしその「社会的な人物」を演じる息苦しさの裏側には、決して他者には見せられない暗く重い「影」が心の奥底に静かに溜まっている。
心理学者のユングは「人間の心の奥底には攻撃性や支配欲など、社会的に抑圧された衝動の集合体である「影(シャドウ)」が存在する」と提唱した。
なぜ一部の女性たちは、時にそのすべてを投げ出し自らの自由を手放してまで「服従」を求めてしまうのだろうか。
「誰かに支配されたい」「すべてを委ねたい」という願いは決して異常なものではない。
それは理性が作り上げた「完璧な私」という檻から逃れようとする影(シャドウ)の切実な叫びなのだと思う。
目次
タブーに触れたくなる理由
してはいけないことほど、どうしてあんなにも惹かれてしまうのだろうか。
人間の心には禁止されるほどにそれに抗い禁忌に触れたくなる引力が働いている。
毎日メイクをして、綺麗な服を着て、きちんとした社会人として振る舞う。
その「完璧に積み上げた日常」を自分の手で一気に壊してしまいたくなる衝動。
主従関係という特異な空間において、サブミッシブな女性は自らの尊厳を他者の手に委ねる。
言葉で貶められ、身体を拘束され、一人の人間としての権利を剥奪される。
普通に考えれば恐怖でしかないはずのその行為に、なぜ心が震えるほどの悦びを感じるのか。
それは絶対的な「安全」が担保された関係性の中で行われる極限の精神的マゾヒズムだからだ。
ジェットコースターが落ちる瞬間、身体は死の恐怖を感じるが理性は「安全バーがあるから死なない」と知っている。
その認知のズレが脳内に強烈な快楽物質を溢れさせる。
そのズレは人によって涎を垂らし、尿を漏らしてしまうほどの凄まじい快楽となる。
同じように信頼できるドミナントの手によって意図的に尊厳を奪われる時、女性の脳は「危険」と「安全」の狭間で火花の散るような状態になる。
その瞬間、彼女たちは「しっかりしなければ」という日常のしがらみから完全に解放されるのだ。
「ご主人様」という絶対的なセーフティネット
服従している時の心理状態を言葉にするなら、それは「無」に近い恍惚感だろう。
「自分で決断しなければならない」という生きていく上で最も重いタスク。
明日何を着るか、仕事のトラブルをどう処理するか、自分の人生をどう生きるか。私たちは常に選択と責任の連続の中で息を切らしている。
しかし「ご主人様」の前に跪き、命令を待つその瞬間だけはすべての道徳や責任のスイッチが完全にオフになる。
1日に1人あたり35,000回あると言われる決断からの解放。
「右を向け」と言われれば右を向く。「脱げ」と言われれば脱ぐ。
そこには迷いも葛藤も存在しない。思考は限りなくクリアになり、ただ与えられた命令を遂行することだけに意識が研ぎ澄まされる。
安全の枠の中で言われたことだけをやればいい気持ちさに溺れてしまう。
してはいけないことに溺れる快楽
なぜサブミッシブな女性は「ご主人様」を求めるのか。
それは自分のすべてを完全に委ね、すべての責任を背負ってくれる圧倒的な存在が必要だからだ。
自分で決断しなくていいという究極の責任転嫁。
それは逆説的ではあるが、日常では決して味わうことのできない絶対的で完全な自由と安心感をもたらしてくれる。
例えば以下のような状況を想像してみよう
- 真面目な課長がデスクで一日中ゲームをしている
- 機械のように正確な先輩が1週間連続で大学の課題を放棄する
- 控え目な保育士が髪の毛をピンクにして職場に行く
- 大手勤務のエリートOLが勤務中の職場に反社のような彼氏を呼ぶ
普段、「真面目」「頼りになる」「物静か」と評価をされている人々にこのような願望があったとしよう。
どれも異常な状況だ。ただ本人は刺激・焦燥感・背徳感に脳汁が止まらない。
これを許された中で、責任を取る必要がない囲いの中で行うことができたら?
絶対的な存在に「これをしていい」と命令されたら?
この免罪符が与えられることで、彼女たちは初めて「自制」という重い荷物を下ろすことができるのだ。
そしてしてはいけないことをする快楽に溺れていく。
調教においても同じである。
日常で「生真面目」「しっかりしている」「美人」「手の届かない存在」「ぜったいSでしょ」そんな風に扱われている女性がいたとする。
- 犬として扱われたい
- 監禁されたい
- 尊厳を奪われたい
- 排泄を見てほしい
そんな誰にも言えない願望を、我慢せずに体験させてくれる空間があったらとしたら。
きっと忘れられないほどの快楽に溺れる。
カラダ以上に体験は強烈な記憶として脳に強く刻まれる。
揺れ動く心と戻ってしまう強力な引力
主従関係という非日常に一度でも足を踏み入れた者はその後の強烈なギャップに苦しむことになる。
極限の悦びと服従を経験した後、一部の女性は一度その関係から逃げ出したくなる衝動に駆られる。
「こんな異常なことに溺れてはいけない」
「昼間の職場で真面目に働いている私とは違いすぎる」
未知の悦びを知ってしまったことへの恐怖。
そして光の当たる日常の自分と、暗闇で支配を渇望する自分とのあまりにも大きな落差から来る自己防衛本能。
女性の中には経験の記憶が強烈すぎて一度の体験でSMから距離を置く人もいる。
ご主人様からの連絡を無視し、日常の軌道へと急いで戻ろうとする女性もいる。
しかしその決意は長くは続かない。
「二度と会ってはいけないけど、またあの命令を聞きたい」
「時間が経ってしまって連絡しにくい。でも調教されたい」
一度開いてしまった「影」の解放区を、脳は決して忘れてはくれない。
仕事で理不尽に怒られた夜、一人きりの部屋で無音と向き合っている時、あの思考が停止するほどの強烈な服従を思い出す。
そして結局は抗いがたい引力に引かれるように、再び自らまた連絡をしてしまう。
実際にこのブログから関係を持った女性とも不意に連絡が取れなくなることがある。
それが事故によるものか意図的なものかは経験則からある程度判断がつく。
女性にもよるが、その時に僕はそれが一時的な反射だと判断をすることがある。
そしてその判断をした女性は、期間の差はあれど再度連絡をしてくる。
一度は回避した、服従による快楽を忘れられなかったその人間らしさを僕はとても愛おしく思う。
服従を通して気づく本当の自分
服従を求めることは決して恥ずべきことでも異常なことでもない。
それは社会の中で見失ってしまった、自分自身の最も深く最も純粋な「影」と向き合うための真摯な時間であると言える。
すべてを奪われ、支配されることでしか埋まらない空洞が人間の心には確かに存在する。
もしあなたがいま誰かにすべてを委ねたいという渇望に苦しんでいるのなら。
その苦しみを否定せず、ただ静かに実体を見つめてみてほしい。
あなたが求めている「ご主人様」はあなたを壊す存在ではない。
「常識」を演じなくていい場所であり、本当のあなたを正しい意味で優しく、そして容赦なく暴き出してくれるただ一人の理解者なのだから。
してはいけないこと。
考えてはいけないこと。
ご主人様を探すということは、それらを許容してくれる相手を探すということだ。

