先日、大学時代の恩師と再会した。
たまたま大学に行く用事ができ、実に九年振りの再会であった。
恩師といっても僕はその教授のゼミに属した訳でも、特別な親交があった訳でもない。
僕が好んで先生の授業を選択しているだけの、一方的な尊敬だったと思う。
授業終わりに講義内容について質問をしに行ったり、授業の中で感じたことを伝えることはあった。しかしそれは一般的な学生の行動範疇だったと記憶している。特別印象に残るような話をしたつもりはなかった。
しかし大学でばったり会った時に、先生の方から声を掛けて下さった。
「やぁ、久しぶりだね」
驚くべきことに、先生は僕の名前も覚えていた。
そこから色々な話をした。
僕の仕事について、生活について、学生時代の印象的な講義について。
話題は、最近の学生というテーマに移行していった。
最近の学生は些細なストレスを苦情に昇華させる能力に長けていて、この十年で講義のやり方は大きく変化したようだ。
苦情は講義内容や学生への公平な対応などある程度正当性が想定されるものではなく、教授の人格否定のようなものが多いらしい。
中学卒業以降は義務教育ではなく権利教育であるから、本来学費をかけてまで(学費を払っているからこそ苦情を言えるという論説は認めるが)不遜な態度を取りに来るのは本末転倒である。
僕自身、「最近の若者は…」という一括りの非難を忌み嫌ってきた。僕が尊敬している先生もそんな安易なまとめ方はしないだろう。
僕が感じるのは、若い人に限らず現代人は「価値観の多様化を免罪符にしている」ということ。
こんな人間もいる、こんな考え方もある、それ自体は素晴らしい。今は情報過多の時代であるから、ほぼ全ての感情や思考法に名前が付いているだろう。
価値観が多様化したことで生み出されたものは多い。根拠のある大樹は、新たな枝葉は生むからだ。日々細分化が進んでいるということだろう。
人の有り様が複雑化している現代だからこそ、やるべきことは適切に対応したい。自分の中の多様化に甘えず、思考を磨いていきたいと思う。
僕の中では小説を書くことも、詩を書くことも、女性を調教することも、同じだけの熱量をもって精進していきたい。
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