
彼女はあまり「支配をされたい」とは言わなかった。
いくつもの場所で集めてきた欠片を集め、支配よりももっと適切な言葉を選んでいたように思う。
時には沈黙を言葉に代替させることもあった。
その沈黙には言葉よりも明確な合図があった。
椅子に腰掛けた時の姿勢、グラスを持つ指先の静けさ、呼吸。
そして僕の言葉が落ちた時のごくかすかな首の傾き。
それらのすべてが彼女なりの従属の意思表示だった。
意思というより「応答」だったのかもしれない。
言葉にならない感受性を、減衰することなく正確に届けるための頷くという応答。
支配と従属とは決して声を荒げたり、力でねじ伏せたりすることではない。
むしろ沈黙の「あわい」を読み取る力、そしてその沈黙を手放さずにいられる精神の静けさこそが、支配する側に求められる資質だと僕は思っている。
支配とは川の流れをせき止めるような行為ではない。
それは流れる水脈の方向をほんの少しだけ変えてやることだ。
彼女のような女性には、強い言葉も、鞭も、拘束具も必要なかった。
必要なのは、世界に一つしかない問いかけだった。
例えば「その目線は誰に向けられているのか?」
彼女は僕の問う「目線」が広義であることを理解していた。
答えはいつも、頷きか、まばたきの速度で返ってくる。
それで十分だった。
支配とは、些細な確認の連続である。
確認によって彼女の輪郭を確かめ、その輪郭の中心に僕がいるかどうかを推し量る。
彼女がその輪郭の余白を差し出す準備があるか、小さな質問で確認していく。
その応答の連続が成立した時、初めて一つの支配関係が生まれる。
幸か不幸か、世の中には不自由を選ぶことで自由になる女性がいる。
美しく、柔らかな感受性を持った彼女は大人になり責任が明確になることで「自分で選べる不自由」に惹かれるようになったのだと思う。
彼女の中では命令を受けるという行為が本来の自分自身への帰還を意味していたのだ。
例えば「下着を脱ぎなさい」と言われる時、それは服を脱ぐことではなく「もう演技をしなくていい」という暗号のようだった。
支配には狂気のような暴力性と優しさの両方が含まれている。残念ながらそれらは分離できない。
彼女たちの多くは痛みや羞恥の先に「本来の自分が愛される感覚」に辿り着こうとしている。
それは一見して歪んでいるように見えるかもしれない。
けれど世界のすべての愛が健全な形をしているわけではない。
そして健全であることが幸福を保証するとも限らない。
僕は女性を支配しながら、実のところ彼女たちの最も繊細な部分と興味深く向き合っている。
その繊細さは体の奥にある感受性の壁であり、その壁にふれることが許されるには時間と沈黙と対話が必要だ。
支配とは行為そのものを意味するのではなく、相手にとって与える作用を意味するのだと思う。
長さよりも濃度。
僕という重みが彼女の世界にどう作用するのか。
それを測るために、今日も僕は沈黙と命令のあわいを行き来している。

