「ずっと奴隷になってみたかったんです」
関係を結んだサブミッシブ女性の口から安心したように発せられる言葉だ。
誰にもできない告白だったのだろう。
社会的に成功していればいる程、社会的に良識的であればある程、この言葉を世に放つことは躊躇われる。
よく男性が「M願望を隠している女性を解放してあげます」と嘯いているが、事態はそんなに安易ではない。
本当に従者になりたい女性は一般的なそれよりも常識があり、慮り、配慮がある。刹那的なSMプレイを望む女性とは別種だ(別種なだけでそれが悪い訳ではない)。
自分が変態だと思われる事を懸念するだけではなく、告白された相手の心持ちも想像してしまうだろう。
サブミッシブ女性にとっての解放とは性癖や願望のカミングアウトではなく、もう取り繕わなくて良いんだという安堵だ。
男性が想像している解放とは残念ながら全くの的外れである場合が多い。
自由は拘束の中にある。
主が設けた拘束の中で、逆説的に奴隷は自由を手に入れる。
主を求める女性は、日々想像し、悩み、祈り、望まない男性からの連絡が溢れていく。
主従関係を結ぶという行為を想像する時、僕は雨の中で濡れた女性に傘を差し伸べる姿を想像する。
湿度のストレスや雨音の雑音がなくなった訳ではないのに、どこか救われたような気持ちになる。
奪われていった体温が戻ってくる。
「主従関係」を想像した時に想い描く風景はそれぞれだ。自由でもある。
同じ風景を見てみたいと思った時に、風景の一部になってみたいと思った時に、男女は関係を結ぶのだろう。
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